お通しはいつものあれで。

実録、現実は小説より奇なり

夏至図の星読み

 6/23、暦は夏至を迎えました。占星術の世界ではその時の星の配置を夏至図と言い、それはここから3ヶ月間、秋分までの道標となります。

 ホロスコープの解釈には大まかな共通する流れはありますが、星を読む人によって特出する箇所や解釈、表現が多少変わります。

 私はまだまだ修行の身であり、この文章はそんな私が私なりに解釈したものです。置き傘程度、心の片隅において頂いて、少しでもこれが皆さんの生活にお役立てることがあれば幸いです。

世の中の流れ

 国と国民との間にさらに認識の差が出る星回りです。残念ながら国民にかかる経済的なプレッシャーはまだ強くなりそうです。

 国民の我慢は限界をむかえていますが、答えが出ない、欲しい答えがもらえない状態はまだ続いてゆきそうです。当然人々の不安は高まりますが、作られたルールによる抑え込みや、二極化が進む世の中で互いが空気を読み合い、抱えた不安が消化されにくい雰囲気が漂います。

 なかなか変わらない現状のなかで思うように動くことが出来ず、ストレスで心身のバランスを崩す方もおられるかもしれません。心と体のメンテナンスを行って吉、生活環境を含め今一度自分の健康を見直すようにしてみましょう。

 政治面では過去から置き去りにしてきた問題が浮上し、混乱が起きやすい配置です。目の前でおこる矛盾の根源は何なのか、ひとりひとり身近な問題から突き付けられる出来事が多い傾向も。

 先日の金環日食の影響でもお話した通り、今、目の前にある問題の答えはひとつではなくて、『ベストではないが、ベターな選択』をそれぞれが悩みながら決めている感じ。
 私達はそれぞれの選択を前にどう行動するのか。同じ星で共に生きるために、どう互いが思いを寄せられるか。ここから約200年間続く風の時代の入口で個々の価値観が問われる三か月になりそうです。

新型コロナに関して星読み的には…

 …まだ拡大傾向と私には読めます。
人々は新型コロナのある世界に慣れてきていますが、ここからまだ想定外の動きがあるかも知れません。

 10月末、各惑星の逆行が終了した頃、なんらかプラスの情報が出そうな兆し。天王星の逆行が終わる来年の年明け頃には世界全体のワクチン接種による大まかな結果が見えてきて、これから世界が進む道筋が見えてくるかも。個人的には少なくともそれまでは、引き続き感染症対策をして過ごした方がベターだと思われます。

 加えて念のため、地震や天候災害の対策をして吉。こういう時期ですので、特に備蓄の見直しをおすすめいたします。

ここから三カ月を過ごすヒント

 さて、ここからは私が夏至図を読んで感じた、夏至から秋分までの過ごし方のヒントをお伝えしようと思います。

 今回の夏至図のアセンダントは天秤座の11度、サビアンシンボルが『眼鏡越しに覗き込んでいる教授』という度数で起こりました。共感や調和、相手を理解し、目線を合わせ、知識をわかりやすい言葉で伝えることの重要性を表しています。これは今年の春分図でも同じ度数でしたので、一年を通したテーマとも言えます。

 占星術の世界では現在を約200年続いた地の時代から風の時代へ、古いやり方と新しいやり方が入れ替わる調整の時期ととらえています。

 ものごとの始まりに混乱はつきものです。
先の地の時代は集団を重視した縦の世界が軸でしたが、風の時代は個を重視した横の繋がりを軸にする世界に変化すると星の特性から読み取れます。

 個が重視される世界では、今まで集団によって保護されてきた物事が、個々の責任に置き換わるようなことも起きてきそうです。
 
 例えば集団意識に支えられていた責任感が成り立たなくなり、誰かの我慢の上に成り立ってきたような医療や社会保障、教育、福祉など公共を維持することが難しくなる局面がでてくるかも。また今まで以上に生まれ持った特性や暮らす場所、家族など変えられないものの差が浮き彫りもなることも増えるかもしれません。
 
 ここで大切なポイントは、個を大切にすること=責任を一人で背負うことではない、という点です。そもそも人間は1人では生きていけません。それぞれが個として自立し、なるべく依存せずに互いを助け合い生きていく、そのカタチを互いに作っていく、それが本来の個を大切にする世界ではないかな、と私は思います。

 これまでの地の時代はまず集団ありきの上に平等が作られてきましたが、風の時代はそれぞれが出来ることを差しだし、出来ないことをしてもらうような、イメージで言うと等価交換、対等なコミュニケーションの上に平等が成り立っていくのではないかとも感じています。個々持っている力が重視される…個の権利を得るというのは、そもそもそういうことなのかもしれません。

 新型コロナウイルスは私達人類に、ウイルス1つで世界が変わる怖さを教えた一方で、命の儚さや尊さ、人との繋がりの脆さ、大切さを実感させました。また世界全体が横並びに新型コロナウイルスという問題に直面したので、各国の政治力、経済力、国民性を知ったり、教育や福祉に対するスタンスの違いを知ることも出来ましたね。そして一番に世界中の人と繋がり、どこででも仕事が出来ること、教育が受けられる可能性を知りました。
 
 人と人の繋がり方が変わるなかで、今までのように一つの世界の中で居場所を探すのではなく、いくつもある世界から自分に合う居場所を作ったり探したりする流れが始まっています。自分がどこの世界で生きていきたいのか。それを知るためには、自分自身の能力や弱点、欲しいもの、人に与えられるものなどを深く理解しておくことが大切です。またそれを知ることで、ここから努力すべき方向も定まります。

 そんな今の状況を押さえた上で、この夏至から秋分までの三カ月では、あえて少しだけ自分の『こだわりや当たり前=執着』を横に置いてみるということを試してもらえたらと、思います。例えばですが、日常見たくないのに、つい気になる対局の意見や相手に注目してみましょう。気になる=何らかの執着がある、と思うのです。

 執着=自分を縛っている思考を知り、それを少し緩めてみる。例えば対局と感じていた相手との共通点を知ることで、苦手と思っていたことを克服できるような情報を得ることがあるかも知れません。

 ただこれは苦手な相手と無理に仲良くなれとか、向き合えということを指しているのではありません。人間はどうしても自分の見たいように世界を見てしまう生き物なので、嫌い、苦手という先入観を外して相手の考えを知ることで、物事をありのまま見、自分の選択を冷静に分析したり、選択肢を拡げてみては?いうお話なのです。

 本格的な風の時代がスタートする前に、新しい世界に身軽に向かえるよう、良いものは持って行こう、捨てるものは捨てていこうと星は促しているのだと思います。

 過去やり残したことをやり直すにも向いている時期です。特に金銭面の見直しは吉、あなたに人の話を聞く姿勢があれば、必要な知識を教えてくれる人と自然に繋がるなんてこともありそうです。趣味など好きなことで繋がったり、専門的なこと、勉強、資格、研究なども再挑戦したり、移住や留学、輸入輸出業など外国に関することなどで人と繋がるにもとても良い時期です。

 ただそこで少し注意を…現在木星魚座に滞在して逆行していますので、相手との共通点は見つけやすいのですが、自他の境界線が曖昧にありがちな時期でもあります。近づきつつも距離感にはご注意を。礼節と謙虚さを忘れずに…。

 なかでもSNSの使い方には注意をしてください。つい感情的に言葉がきつくなったり、衝動的な行動をしがちな時期であり、またメンタルにそれがダイレクトに響きやすい時期です。つらくなったら、SNSから距離を取る、関わる人を変えてみる、アカウントを新しくする、どんどんミュートブロックするなどマイナスに流されない工夫をしましょう。

 今は新しい世界を作りだす産みの苦しみの時期。今までの当たり前に慣れている私達は新たな時代にアジャストするまで、皆それぞれ何らかストレスを感じることは必須です。

 またここ近年、何事においても二極化が進んでいるのを皆さんも肌で感じておられるのではないでしょうか。SNSでは自分とは対局の意見に対して攻撃的な言葉が目立ちます。
 
 個人的に今は二極化の波に流されない自分になることが大切かなと思います。どれだけ否定しても、私達は殺しあわず同じ空の下で横並びに生きていかねばなりません。自分が少しでも快適に生きるために、互いの落としどころを見つけるほか、方法はないのです。

 不安や問題を一気に解決しようとすると無理なことは多いですが、問題を細分化し出来ることから少しずつでも解決していけば、確実に安心へ一歩近づきます。

 この実際に『行動に移し、その変化を肌で感じる』ということが、この三カ月、強いては風の時代を生き抜く鍵にもなりそうです。

 『眼鏡越しに覗き込んでいる教授』…
世界が変わろうとしている今、時間をかけ、自分とは違う考えをじっくり聞き、学び、己を知る。そうやって自らの地固めをしている間に、必要な力、道筋はおのずと見えてくる。新しい世界の入口、それは自分に合った世界を作れるチャンスでもあり、このような瞬間に居合わせることは、ものすごいことだなと私は感じています。この一年のテーマ『調和や共感力』をプラスに使うも、マイナスに使うもあなた次第です。

では皆さんが素敵な夏を過ごされます様に。

住めば都はかくやあらん(2)

 前回の『住めば都はかくやあらん』はこちら 
https://mirainokodomo.hatenablog.com/entry/2021/06/13/192207

千代さんと高松さんの見た桜

 東京での十数年、私はなるべく駅近の物件を選んで暮らし、仕事帰りに名も知らぬご近所さん達と1杯飲むのが日々の楽しみ、そんな生活をしていた。

 それもあって、たまに話せるくらいの友達は欲しいな、と淡い幻想を抱いてここにも引っ越してきたのだが、大奥の洗礼による先制パンチのダメージはことのほか大きくて、引っ越し二日目にして行動は愚か、友達ができる想像をする気力すら1ミリも私に残らなかった。

 が、夫の仕事がある以上、しばらくはここで生きていかないといけないのは事実。強烈なご近所の皆々様とは、程よく距離を置いて静かに生きていこう、私はそう心に誓っていた。

 ただこの時すでに1つ問題が起こっていた。
それはご近所さんと名乗る多くの方が、昨日自ら我が家に挨拶に来られたことによる
『一番挨拶しなくてはならない同じ班のお宅へ引っ越しの挨拶が済んだのか、済んでいないのか、顔も名前も住んでる場所も一致しない引っ越したばかりの私には分からなくなったよ問題』である。

 引っ越しの挨拶を渡したお家がある以上、渡さなかったお家があるのはまずい。昨日の時点ですでに予算額をとっくにオーバーしていたが、悩んだ末、私は9軒分のフルーツを追加で買って、渡す際に顔がわかればお裾分けと言い、わからなければタオルを足し、引っ越しのご挨拶だと言って渡すという作戦を立てた。

 フルーツを買いにいったスーパーで昨日私を助けてくれた忍びさんにすれ違い、挨拶をした。少し話しただけだったが、忍びさんのことが私は恐らくタイプで、話したいという衝動に駆られたが、私はそれをぐっと我慢した。その様子を察した忍びさんも挨拶だけして去っていた。
 1つ門が開いてしまえば、全てがなし崩し的に開いてしまう田舎システム。この場所以上に『ど田舎』で育った私はその恐ろしさをよく知っていた。
 
 このミッションは手堅く手早く確実に終わらせると念を入れ、挨拶に回る前に町内会長さんのお家に伺い、同じ班の9軒の場所と名前を確認した。
 町内会長さんは
『素敵なタオル、皆さん喜ばれてたわよ(笑)。良かったわね。』
とすでに過去形で言い、私は『だからそれは、どこのどの皆さんなんでしょうか~?』と脳内再生しながらも
『それは良かったです〜。』
と鉄壁の笑みを返した。

 8軒回ったところで、やはり4軒は初対面だった。スマホどころか携帯も持っていない方もかなりいるこのご近所ネットワークが、文明の利器インターネットより早いことに改めて脅威を感じた。

 2軒目に伺ったお宅では婦人会でお会いしたお嫁さんのひとりが出てこられた。フルーツとタオルを手渡し挨拶すると、やっぱりその場で中身を見て、そして小声で
『ごめんね、うち、お義母さんが昨日お宅に伺ったわよ。』
と苦笑いし、家の奥の様子を気にしつつ、タオルをそっと返してくれた。私は声に出さず両手を顔の前で合わせ、何度も頭を下げた。

 最後に伺うのは後ろに暮らす一人暮らしのおばあちゃん『高松さん』に決めていた。最初に家を見学に来た際、家の向かいにある畑で作業をされている姿をお見かけしていたので、高松さんがうちに挨拶に来られてないことは分かっていた。
 
 本当は一番に伺いたかったが、町内会長さんの旦那さんの『おひとりだから、たまに声をかけてあげて。』という言葉が心に残っており、もし高松さんがお話されたい様子だったら、最初くらい少しお話をと思ったからだ。
 
 高松さんのお宅は、池を中心に回廊のある平屋で、周りをぐるっと竹と木材、瓦で作られた高い塀が囲み、正面には格子戸つきの数寄屋門が建った立派な日本邸宅だった。

 畑に高松さんが居られないことを確認してから、私はインターホンを押した。間の伸びた電子音でバッハのメヌエットが流れた後、5分ほど応答がなく、あれ?出直そうかなと石段を降りようとした時、
『はい、どなた?』
とようやくインターホンから声がした。
『はじめまして、東京から引っ越して来ました○○と申します。』
と慌てて答えた私の声は少し裏返った。

 すると、プツッとインターホンが無造作に切れ、再び5分ほど応答がなく私が門の前で右往左往していると、高松さんは玄関先にゆっくり歩いてこられた。

『ごめんなさいね、私、足が悪くて…早く歩けないのよ。』
と言いながら出てこられた高松さんは綺麗にパーマをあてたふさふさの白髪に、ケント・デリカットみたいに目が大きく見えるメガネをかけた、品がありつつ可愛らしい感じのおばあさんだった。高松さんは門の格子を開けると丁寧に私に向かって
『はじめまして、高松です。』
お辞儀をされた。
『こちらこそ…』
とまた慌てて頭を下げ挨拶をいい掛けた私は、高松さんのその手に包丁が握られていることに気がついた。
『はじめまして。○○です…。』
包丁を凝視して続けた私の声は急に小さくなって、高松さんはそんな私の様子に慌てて
『あ!あ〜あ〜、ごめんなさいね。これね、せっかくだからお野菜もってってもらおうと思ってね〜。あなたのお話は畑でお聞きするわね。』
と言ったあと、畑へ歩きだした。

 ごめんなさいねと言われたものの、これが当たり前とばかりに包丁をフリフリ持って歩く高松さんの後を、私は少し距離を置いて歩いた。

 15畳ほどの畑にはそれぞれの野菜がきちんと整備されて植えられていた。その様子に私は高松さんはきっちりされている人なんだろうなと思った。
 一方で手に包丁を持つ高松さんの姿はなかなかシュールな光景だよなと思い、周囲の様子をうかがった。

 畑に入ると高松さんはおもむろにしゃがんでキャベツを包丁で切り採り
『あら、なかなか大きいわ。』
と言いながら、私にそれを渡そうとした。
『ちょっとお待ちくださいね。』
と私は言うと、走って私は高松さんの家の玄関前に引っ越しの挨拶を置き、キャベツを受け取った。ズシッと中身の詰まった、本当に立派なキャベツだった。

 次に高松さんは鈴なりに生っているスナップエンドウを手でちぎって、そのまま口にほおりこみ、
『うん、やっぱり食べ頃だわ』
と独り言を言うと
『あなた食べる分持ってきなさい、私一人で食べられる量には限度があるから、たくさん持ってて良いよ。』
と私にポケットに入ってたビニール袋を包丁を持った手で渡してきた。
危な!と戸惑う私に
『都会からのお嬢さんには口に合わんかもしれんが…』
とおそらく私の表情を勘違いして高松さんが言ったので、慌てて私は
『いえ、私は石川の農村で土を耕して育ちました。ありがたいです。頂きます。』
とキャベツを畑の脇におき、ビニール袋を受け取った。すると高松さんは驚いて
『あら〜ぁあ、あなた千代さんところの孫さんではないのね。こらまた失礼したわ〜。』
と言った。

 実は昨日から訪ねてきたご近所さんから同じようにこの『千代さん』というお名前を幾度となく聞いていた。

『あの〜千代さんって前の…』

と話しだす私の言葉にかぶせるように高松さんは

『そうそうそう、あなたのお家のね、前の家主さんよ。この家に住んでいた人。』
と言いながら、畑脇の縁石によいしょと腰掛けた。

『で、あなた、何でここへ来なさったの?』
とやっと本来の挨拶らしい言葉を高松さんが言ったので、夫がこの地の学校で教鞭をとることになり、ここへ引っ越してきたことを話した。すると
『あら、うちの亡くなった主人も大学の職員だったのよ。あらそう、それはあなた大変だわねぇ。あなたは?あなたのお仕事は?』
と高松さんは言ったあと、
『あ、あら、ごめんなさいね、あなた昨日みんなから同じようなこと、たくさん聞かれたわよね。』
と苦笑いした。

『大丈夫です、仕事は自宅でできるライターなんですよ。』
と私が言うと、高松さんはまた私の言葉にかぶせるように
『ううん、いぅても、慣れない土地で暮らすのは誰でも、何もなくても、大変よね。想像力の無い言葉は人を傷つけるわ、本当にみんなが色々言ってごめんなさいね。』
と軽く頭を下げられたので、私は慌てて
『いやいや、本当に本当に大丈夫ですから。私の田舎も似たような感じで色々あって…』
と言いかけて、しまったと言葉を止めると
『大丈夫よ、私、子どもが居なくてね、ご近所さんとはお互いに昔から距離があるの。誰にも言わないわ。』
と高松さんは微笑んだ。

 なんだか気まずくて話を変えようと私が
『千代さん、とは仲良かったんですか?』
と聞くと高松さんはあっさり
『ううん、全然。あの人はしつこかったけど、私は仕事で忙しかったし、いつも誘いを断ってたのよ。』
と言ったので、私はまた苦笑いした。

『千代さんにはお子さんが4人いて、子どもが出ていったあとも、上の部屋を大学生に貸して夫婦で学生寮みたいなこともしててね、ほ〜んと、おせっかいなお母さんの代表みたいな人だったのよ。』
私は家の柱の傷や手入れされた様子を思い出し、なるほどと納得した。

『あなたの借りたお家、前はね、塀で囲まれて立派な広いお庭があったのよ。』
と高松さんは言った。確かに見学の時に見た庭は荒れ果てていたが今より広かった。それを今の大家さんは塀を全て取り払い、半分に砂利を入れて駐車場に、半分を私達が畑に使えるよう土を入れ更地にした。

高松さんは少し懐かしそうに
『庭の真ん中に立派な桜の木があってね、それはもう見事だったの。近所の人がその季節になると、千代さんをみんな訪ねてね、縁側でお茶を飲んで花見をしたのよ。あの人、人が良いから、すぐ料理なんか出しちゃってそのまま毎回宴会になっちゃってね。その度にほんとにうるさかったわ。』
と言い
『高松さんも、千代さんのお家の桜を毎年見られたんですか?』
と私が話の流れでそう聞くと
『塀の外からは毎年見てたけど、中で見たのは一回だけね。』
と高松さんは答えた。
『え?』
と聞き返した私に
『ええ、だから言ったでしょ、私、彼女と仲良くなかったのよ〜。』
と高松さんが言ったので私は再び苦笑いした。高松さんは続けて語りだした。

『何年か前にね、千代さんの旦那さんが本当に急に亡くなったの。ちょうど4月の頭でね、私お隣だから、さすがに手伝えることないかなとエプロン片手に訪ねたのよ。するとね、もうたくさんの人が家の中をバタバタしてたのね。』

『そんな中、千代さんを探したら、彼女、縁側に座って桜を見てたの、一人で。私が千代さん、と、声をかけると千代さんはね、私を見てこういぅたのよ。』

高松さんはふっと微笑んで、話を続けた。
『『やっと来てくれたわね』って。それまで毎年、千代さんは『土日、うちに寄ってね。桜が今見頃だから、お茶飲みにいらして。』と、何十年もの間、何十回も言ってくれてたんだけど、働いてる私は土日は寝てたいし、やることがあるし、桜は職場の花見でうんざりしてて、その上、休日にあのうるさいご近所さんに気疲れなんてね。千代さんとあの日、特に何を話した訳じゃなかったんだけど、あれだけ毎年来て来ていうだけあって、あれは本当に、立派な桜だったわ。』

 そこまで語ると高松さんは縁石から立ち上がって腰をトントンと2、3回叩き、座って畑の草をむしり始めた。私もスナップエンドウをまた脇におき、高松さんに続いて草をむしった。

『私の夫も2ヶ月前に亡くなったの。』
と高松さんが言った。
『そうだったんですか。』
と返しながら、そんなに最近のことだったんだ、と私は思った。慌てた様子で高松さんは
『あ、でもずっと寝たきりで、入院してたから、覚悟は出来てたのよ。むしろね、亡くなったほうが近くにいるみたいで寂しくないくらいなのよ。』
と言った。この方はいつも言葉を受け取る側のことを考えて話す方なんだな、と思った。

『本当に、人間って経験しないとわからないことばっかりね。』
高松さんは雑草を抜きながら言った。
『えっ?』
私が顔をあげると高松さんは続けて

『旦那さんが亡くなってから、千代さんしばらくここに一人で暮らしてたの。お子さん達が土日に遊びに来たりして。私だから、千代さんは大丈夫だと思ってたのよ。』

『次の年の桜が咲く前に、千代さんは娘のところに引っ越すわと挨拶にきてね。私、だからその時『あら良かったじゃない!お孫さんの面倒見て楽しくね。』と声をかけたのよ。彼女変な顔を一瞬したけど、笑ってお元気でね、といったの。』

『でも何ヶ月か経って、近所の余計なことを話す人が教えてくれたの。千代さんはこの家を手放したくなかったんだけど、子ども達が遺産で争うようなことになって、結果ここを出ていくことになったって。』
と言った。そして続けて

『私はずっとね、千代さんは恵まれた人だと思ってた、何にも問題がない。でもね、千代さんが居なくなって、畑に出る短い時間で聞く千代さんの話ですら、随分昔から千代さんには大変な話がたくさんあってね。』

『私は子どもがいないから、職場や親戚やご近所さんに余計な親切や心無い言葉を言われたことがあったから自分ばっかりつらいな~って思ってきたんだけど、どっちにいてもつらかったのかなってね。』

話しながら、高松さんはポケットからビニール袋を出して自分で食べる分であろうのスナップエンドウを摘み始めた。そして手を止めることなく高松さんは

『夫を亡くして、あの時の桜を見てた千代さんのことが少し分かるようにな気になってね。』
と言い、少し間をおいて

『ま、今、千代さんが元気にしてたら良いなと思うわ。』
とやっぱり手を止めずに言った。

草むしりしていた私も立ち上がって伸びをした。何十年ぶりの畑はなかなか腰にきた。
色々あるな本当に、と思った。そしてスナップエンドウを摘む高松さんの背中を見た。色々あるよなとまた思った。

そして少し考えて
『私も畑始めるので、教えて下さい。私、田舎離れて長いんで、大分忘れてるんです。』
と言った。高松さんも少し考えて
『自分の畑で精一杯だから、口だけなら出してもいいわ。』
と微笑んで言った。高松さんのその答えの真意を測りかね、笑いをこらえる私に高松さんが
『何かおかしい?』
と聞いたので、
『私、高松さんと話すまで、ここの土地の人とは仲良くすまい、と誓ってあいさつ回りしてたんです。』
と言うと高松さんは
『あら、あなたそれ大事よ。あなた外者なんだから、私以上に言われるわよ。気をつけなさい。それにここにはたくさん変な人がいるからね。気をつけるのよ。』
と真剣に言った。私が
『そうですよね。はい…』
と返事をする間に、高松さんが家に帰るため再び包丁を片手に持った姿を見て、私は笑いが止まらなくなった。
少し呆れ顔で高松さんは
『まぁ、でもね、どうせ、同じイライラするなら、何かを得る方を選んだほうがいいのかも知れないわね。面倒くさいけどね。』
と言ったあと
『今度、うちに苗をとりに来なさい。』
と包丁を持って歩きながらこちらを振り向かずに言った。

玄関先で高松さんに改めて
『よろしくお願いします。』
と引っ越しの挨拶を渡すと、やっぱりその場で開けて
『こんなにいいタオル!あなた高かったでしょう!あなた無理して!』
と言い、畑から追加でネギを採ってきて
『これも持ってきなさい。』
と渡された。もしかしたらこの土地はもらったプレゼントは目の前で開ける欧米式の文化なの?と思った。

 自宅に帰ってから、私は大家さんに電話を入れ、千代さんと連絡が取れるかを聞いてみた。すると、大家さんはなんと今千代さんが住んでいる地域で不動産屋をされていて、千代さんをご存知だった。
 ご近所さんがみんな『千代さんがお元気ですか?』って聞いてきたことを伝えて欲しいと言うと、大家さんは、すぐ伝えるよと言ってくれた。昨日からの色々が少し浄化された気がした。

 その日の夕食は高松さんからもらったキャベツとスナップエンドウを茹でて、マヨネーズをかけて食べた。懐かしい青っぼい味がして、特にパンパンに張ってるスナップエンドウは格別に美味しかった。
『確かに食べ頃だわ。』
私は独り言ちしつつ、なんとなくそんな気分になって、冷たくしておいたビールをグラスに継ぎ、小皿にスナップエンドウを少し入れて、昨日掃除した仏壇のあった場所に2つをそなえた。
『千代さん…』
と言いかけて、いやいやいやいや生きてるわ!と自分に突っ込み、何にかわからないけどまた手を合わせた。

 お風呂に入って高松さんとの会話を反芻し、『あなた無理して!』まで思い出した時だ。私は気が付いてしまった。書記さんがあの時『後に続く人のために特別なことをしないこと』と私に伝えた真意を。高いタオルを渡してしまえば次の人が困るのだと。
昨日に引き続き、私はまた
『あ゛~~~~~〜〜〜〜。』
と叫んだあと、どこにも持っていきようのない恥ずかしさをどうにかしたくて、頭まで湯船に潜った。


 湯上りに窓を開けて縁側に座ってみた。もう桜はないけれど、ここで千代さんは高松さんと桜を見たんだなと思った。会ったことはないのに、この家や高松さんの話から、千代さんに少し触れた気がして、千代さんが今、幸せでいてくれたらいいな、と思った。そして千代さんは元気?と聞いた人はみんなここで桜を見たのかな、と思ったりした。

 そんなノスタルジックな気分もつかの間、何気なくあたりを見渡すと、目の前の駐車場と狭い道路を挟んだ向かいの家のおじさんと目があった。正確に言うと、窓全開で真っ裸で風呂に入っているおじさんと目があった。

 私は口角だけ上げ、会釈をして窓を閉め、カーテンをしめた。
『変な人がたくさんいるからね。』
高松さんの言葉を思い出した。

 まだ夫と合流していなかった私は家の周りの鍵を何回も確かめてから、仏壇あった場所にもう一度手を合わせ、その日はその前に布団を敷いて眠った。

(つづく)



 

楽しい悲しい、その先へ

 ついに大豆田とわ子と三人の元夫が最終回を迎えた。鉄は熱いうちに打てと言うが、見終わった後、前回に引き続き圧倒されて頭を整理するのに時間がかかってしまった。
 文字を打ってみるとカルテットや最高の離婚、それでも、生きていくなど過去作品をも脳内再生されはじめ、私は脚本家坂元裕二にひれ伏した。

 続編は一作目を超えられないというとわ子のセリフは一回目の結婚のことではなく、それぞれの生まれた家族のことだったんじゃないかなと私は思う。生まれ持っての変えられないもの、坂元作品には一貫してその残酷さが横たわる。

 かごめもとわ子も自分では変えられないことを幼い頃から抱えて生きてきた。人間が生まれた時に持つ、それぞれの第一作目。良い意味でも悪い意味でも、意識的にも無意識的にもそれを超えることは難しい。


 最終回ではとわ子の第一作目である両親との関係が描かれ、とわ子の持つ両親とのわだかまりが、それぞれの結婚→離婚に繋がっていたことが分かる。
 
 子ども心に両親二人からそれぞれ違う空気と違和感を感じてきたとわ子。自分とは別の好きな人がいる八作、自分の母ととわ子のとの間でとわ子を守れなかった鹿太郎、いきなり目の前から居なくなった慎森…元夫らとの夫婦関係が両親の姿と重なった時、とわ子は別れを選んできた。

『離婚っていうのは、自分の人生に嘘をつかなかったって証拠だよ。』

とかごめが言ったとおり、それぞれの続編は第一作目を超えられなかった。

 とわ子が望んだのは、抱えた想いを娘や夫に隠くせず幸せに見えなかった母や、妻が自分を愛してないと知って家に帰らなくなった父とは違う人生であり、自分が両親に愛されていたという人生の根幹を確かめることだ。

 その一方、とわ子の親友であるかごめは幼い頃に両親を事故でいっぺんに亡くしている。横断歩道を渡れないのは恐らくそのためだろう。動けないかごめの手を取ったとわ子を、かごめは家族だと言うが、これだけ長く深い関係であってすら、とわ子もかごめも自分の傷をお互いに語らなかった。

 ひょんなきっかけで他人からかごめの過去を聞かされたとわ子に、かごめは『忘れて。』と言う。傷で人生を測られたくない、私にはそれだけじゃないアイデンティティがある。その台詞からはかごめが今まで他人の勝手な想像によって、何度も不躾に傷に触れられたであろう過去が滲み出ていた。

 
両親の愛=根幹を幼くして突然失ったかごめが
『私には周りが全部山山山に見える』
『皆ができる当たり前が、私にはできない』
と言う。その時とわ子が
『あんたにとって私も山なの?』
と聞く。かごめは否定せず
『あんたはちゃんと社長をやれてる』
『空野みじん子は私一人で完成させる』
と言う。

すごいシーンである。
 
 それぞれの持って生まれたものの差がここで浮き彫りになる。どんなに互いを大切に思い、補い合っても超えられない第一作目。たとえ問題があっても肌で両親を知ることができるとわ子とそれを求めても叶うことないかごめ。恋愛ができるとわ子と恋愛が邪魔だと言うかごめ。
 
 恋愛の先は結婚が当たり前な世界では、関係が先に進むと、同時に世界は二人の世界から家族の世界にすすみ、どうしても育ちや両親の話に行き着く。それは否応無しにかごめの傷に大好きな人が入るということでもある。大好きな人との関係に両親の死に対する同情が入ってしまうと、かごめはその人と過ごせなくなってしまう。味わったことない、味わうことのできない両親との関係を他人がジャッジし可哀想という札をかける。恋愛をしない、それはとわ子の離婚と同じく、かごめにとって自分に嘘をつかない選択なのだ。

 まわりは全部は山。無意識に当たり前を差し出す人間ばかりの世の中で、かごめは嘘をつかず自分で自分を抱きしめる方法を探し続けて生涯を終える。

 そんなかごめが急死したことで、自分ではどうしようもないことが人生に増えてしまったとわ子。しかも八作が好きだった人がかごめであったことが分かった直後のことだった。

 『育ててやった』などどのたまう親戚に囲まれて育ったかごめは恐らく八作の気持ちに気付いていたはずだ。八作のことも指揮者の五条さんと同じように、なんなら、かごめの好きな部類に入っていたはずである。
 八作自身が恋をしない人を好きになったと認識していると言うことは、かごめは何らかのタイミングで八作にこれ以上私に入るなと予防線を張り、とわ子より先に、八作にそれを伝えていたと思われる。

 それがいつのタイミングかはわからないが、誰よりも大切な2人が別れてしまい、かごめもまた自分では変えられないものを増やし背負っていたのかもしれない。

 かごめととわ子、とわ子と八作の問題は両親との第一作目とは違い、自分でどうしようもないことだけでできていない。
 
 なぜなら、とわ子と八作は今も生きていて、2人には子どもである唄を中心に、かごめにも入ることの出来ない、ふたりだけの歴史と世界を持っているからだ。


 とわ子が精神安定に数学の問題を解くのは答えがあるからに他ならない。そんなとわ子が母の秘密の答えを唄と探しに行く。母の想い人は女性であり、彼女が母はとわ子や夫を愛していたという、ずっととわ子が幼い頃から得たかった答えの1つをくれる。母の選ばなかった人生、しかも少しかごめに雰囲気の似た母の想い人に、とわ子は自身を重ねたはずだ。
 
 二人が楽しくお酒を飲む姿に娘の唄が自分の人生の答えを見つけるところに鳥肌がたった。唄もまた、母の3度の結婚により他の人とは違う第一作目を持ち、自分ではどうにもならないことを、抱えたひとりだったのだ。

 母の秘密を知ったとわ子は今は再婚相手と暮らす父と、母のことを話す。すべてを知りながら『お母さんには可哀想なことをしてしまった』と笑い語る父の気持ちは『3人いたら恋愛にならない』に落とし込まれる。

『手に入ったものに自分を合わせるより
手に入らないものを眺めてるのが
楽しいんじゃない?』

と八作がとわ子に言う。
でもそれは手に入らないものと勝手に比べられている隣の人には残酷な現実でしかない。気がつけば、父を一番理解できる位置にとわ子はいたのだ。父の笑いの下にある寂しさや後悔から、とわ子は父の自分に対する愛情を感じとる。

『あなたは凄いね。私達はあなたをひとりで大丈夫な子にしてしまった。』
という父に
『田中さんも、佐藤さんも、中村さんもみんな私が倒れそうになった時支えてくれた人達だよ。』
と告げる。三人の元夫に餃子を作らせた父。とわ子の第一作目はようやくハッピーエンドを迎えた。

 元夫たちに『笑ってくれてたら、あとは何でもいい。』と話すとわ子。長い長い時間をかけてとわ子はずっと欲しかったものに気がつき、そしてそれがもう目の前にあることに気がついたのだ。

 唄がいなかったら、3人の元夫ととわ子は2度と会わない関係であったのかも知れない、とも思う。男女ではなく家族の空気が彼らを繋いでいるからだ。男女の枠に元夫たちを当てはめようと近づく3人の女性とのコントラストが、それを一層際立たせた。元夫3人がそれぞれにまた大切な人や家庭を持った時、この関係が続くのは恐らく唄の父親である八作だけだ。そして全員がその事実を分かっている。


 またこの人を忘れてはならない。『寂しい人には寂しい人が寄ってくる』と話した小鳥遊もまた、かごめやとわ子同様、変えられないものに縛られた人生を送る一人だった。
 ただ小鳥遊は自分が感じてきた理不尽を、他人に対しても同じように与えることが出来る。だから非情な仕事を恩人の頼みだからとやってのけられる。
 ここが彼ととわ子とかごめとの決定的な違いだ。そして小鳥遊の来た道はかごめやとわ子が通るかもしれなかった道の1つであり、二人が選びたくなくて避け続けた道の1つでもあったのだと思う。

『人生って、小説や映画じゃない。幸せな結末も、悲しい結末も、やり残したこともない。あるのは、その人がどういう人だったかということだけです。だから、人生にはふたつルールがある。亡くなった人を、不幸だと思ってはならない。生きている人は、幸せを目指さなければならない。人は時々寂しくなるけど、人生を楽しめる。楽しんでいいに決まっている。』

とわ子を救った言葉がいつか小鳥遊自身を救ってくれることを願う。

 そして最後にとわ子の初恋の人甘勝くんが
『君のことを10人いたら9人の人が好きという。でも残りの一人が僕。』
ととわ子に言う。わざわざ食事をしてそれを伝える甘勝くん。その帰りに自動ドアに挟まれ動けなくなるとわ子。

 どうにもならないことは、じつは身近に、常に隣に。私達はみんなどうにもならないことに囲まれて生きていて、知らないうちに誰かを傷つけ、誰かを受け入れ、誰かを許し、誰かに許され生きている。

 とわ子、元夫たち、かごめ、唄、父と母と母の想い人、小鳥遊、そしてきっと甘勝くんも。別れに対するそれぞれの後悔や願いが、結果とわ子の望んでいた『笑ってくれてたら、あとは何でもいい。』をかたちにしていた。

『見えないけど覚えている
言えないけど伝えている
波が満ちて潮が引く
楽しい悲しいその先へ』

ものすごいドラマだった
#大豆田とわ子と三人の元夫。
とわ子のまた来週、が聞きたい。

私も
とわ子と三人の元夫が
笑ってくれてたら、あとは何でもいい。

(了)

住めば都はかくやあらん

大奥の洗礼


 まだ少し肌寒い風が吹いて澄んだ青空が気持ちの良い3月の終わり、私は陽の良くあたる長い縁側で煙草を吸いながら、引っ越しのトラックを待っていた。

 結婚して一年目、ずっと大学の非常勤講師を掛け持ちしながら研究を続けてきた夫がようやく就職を決めた。ただその場所は長く暮らしてきた東京ではなく、とある日本の地方都市だった。当時フリーの広告クリエイターとしてバリバリ働いていた私はこの期に及んですら、東京を離れたくなかったという気持ちが強くて、大好きな引っ越しと言うのにテンションは低かった。

 借りたのは築32年、当時の私と同い年の5LDKの一軒家だった。見学した際、その家は家主が亡くなってから数年誰も住まない状態だったようで、所々床や畳が腐って抜け、庭がかなり荒れていた。

 紹介する不動産屋さんさえ現物を見て
『すみません…ほんとに僕、こんな状態だって知らなくて…』
と難色を示し苦笑いしてるこの物件を夫はひと目で気に入り、興奮気味に
『人生でもうこんな広い家には住めないかもしれないよ!手をかけて住もうよ!』
と言い出した。
 
 確かに細部をよく見ると縁側と二階の窓のサッシ以外は趣ある木枠とすりガラスの窓で、ステンレス製の追い焚きの風呂に懐かしいランダムな丸型のタイルが張られ、南向きの広い庭に向かって長い縁側があって、まるでサザエさんの家の様だった。

 不動産広告を専門にし、年間何百と言う物件を見てきた私には亡くなった家主がどんなことを考えてこの家を建て、大切にしてきたお家なのかが分かった。実のところ都会育ちで鉛筆でしか戦えない夫にリフォームは無理であり、手をかけるのは私だけと分かっていたが、念願のワンちゃんとの暮らしをにんじんにぶら下げられた私は、縦に首を振ってしまった。

 引っ越しが決まると大家さんが『新婚さんが住んでくれるなら!』と言い予算を奮発し、落ちかけた床と畳を全て新しく入れ替え、クリーニングを入れてくださったので、鍵を受け取る頃には、家は以前と見違えるほど綺麗になっていた。

 家具が届く前にと隅々水拭きを始めると、前の家主さんの暮らされた32年の歴史が見えてきた。

 家主さんが日々丁寧に使われていたであろうことが分かる水回りは、施工が丁寧で作りがどれもしっかりとしていて、年月を経ても少し手を入れただけですぐピカピカになった。
 築32年を支える立派な大黒柱には子どもたちや孫の成長を測った傷が残り、電話線の引かれた柱にも、小児科や学校、酒屋など年代ものの電話番号シールが張られていた。私はそれを見つけるたび、愛おしくて、一層同じ年のこの家が好きになり、引っ越しに対して暗かった気持ちが明るくなっていった。
 
 水拭きの最後は仏壇があったであろう場所をどこよりも丁寧に拭き仕上げた。そして東京から持ってきた菓子折りと駅で買った地ビールをそこに置いて
『ありがとうございます、お借りします。よろしくおねがいします。』
と正座し手を合わせた。

 時間指定した荷物のトラックは予定より少し早く10時前に到着した。
 独身時代に中古屋で買った、古いけど3段あって一番下が冷凍の大きな冷蔵庫は、まるで昔からそこにあったかのようにびったりキッチンに収まった。

 夫はグレーで脚なしの方が良いと言ったが、私があの家には脚付き緑色が似合うと言い張り買った新品のソファーは、置いてみると大正ロマン調で、古いこの家にやっぱり似合っていた。

 学会で引っ越し不参加の夫に代わり、ニトリの配達の方にオプションで家具の組み立てまでをお願いしていたので、大量の本をしまうための本棚をいくつか組み立ててもらった。おかげで本以外荷物の少ない夫婦ふたりの引っ越しは半日足らずで、何とか大方住めるまでに片付いた。

 お昼を買おうと近所を散歩がてらコンビニやスーパーを偵察し、ご当地カップ麺を買って心躍らせながら新しい我が家に帰ると、あるご夫婦が障子を開けていった玄関わきにある客間の窓を覗き込んでウロウロしていた。

正直怖かったが、日も高かったので
『あ…あの…』
と恐る恐る声をかけると
『あ、ここに今日引っ越しされて来た方ですか。私この地域の町内会長です。』
と分厚い眼鏡をされた奥様の方が話し始めた。

『あ、そうです、東京から来ました〇〇です、よろしくお願いします。』
と言うとそこから、どこから来たか、職業は何か、子供はいるか、出身地はどこか、矢継ぎ早に奥さんがいくつもの質問してきた。彼女はそれを小さなメモ帳に読めるのか不安なくらい小さな文字で書き留めていた。

 地方都市と言っても、ここは田舎なのだ。田舎を出て東京で一人暮らしが長かった私は、この感覚をすっかり忘れていた。うちの田舎でもそう、よそ者はエイリアンなのだ。

 その後ゴミ掃除当番や町内会費の説明をされて申込書に記入を求められた。するとようやく口を開いた旦那さんが
『この家は4丁目の○班になるんだけど、全部でお家が9軒で半分が高齢のおばあちゃんなの。この家の裏のおばあちゃん、一人暮らしだから、たまに声をかけてあげて。』
とか細い、かすれた声でいった。
私は彼の顔をみて
『はい。』
と答えたが、彼はそのとたん目を反らした。

 申し込みを渡してもなかなか立ち去らない二人にあ、あ〜そういうことかと
『これ、つまらないものですが…』
と用意していた引っ越しの挨拶の品をダンボール開けて出し、渡すとやはり正解だったようだった。奥さんは目の前で包みを開け
『あら、良いタオルだわ、親御さんはしっかりされてそうね。』
とボソッとつぶやくように言い、分厚い眼鏡の奥の目が初めて笑った。

 
 縁側でご当地カッブ麺を食べ終え、一服し、午後は家具の配置を変えながら右往左往していたところ、近所の人と名乗る方が次々訪ねてきた。引っ越しの挨拶は夫と合流してから行こうと思っていたのだが、まさか相手から出向かわれるとは。おかげで本当にご近所さんかすら私には分からず、訪ねてきたお宅の数は同じ班と説明された9軒を2時間で超えていた。
 
 呆気に取られながら次々に引っ越しの挨拶の品を渡していたら足りなくなってしまい、新居用に買っていた『もうちょっと良いタオル』に手を付けるしかなくなった。

 涙目になっているそこへ、また一人の奥さんが訪ねてきた。後ろ髪引かれる思いでそのタオルを袋にいれ、玄関に向かうと
『今日の3時にそこの公民館に来てください。婦人会の面談がありますので…。』
と言われた。

 婦人会の面談?????
何だ何だ何だ???面談????

そしてタオルを受け取った奥さんはやっぱり目の前で中身を確認したあと、小声で
『菓子折り持ってきてね。これここで生きてく、あなたのためよ。』
と言って去っていた。

 私は ”はぁ〜〜〜〜” と大きなため息をついた。こういう田舎の空気が嫌で東京に住んだというのに、と。重たい頭を上げて時計を見ると既に2時45分だった。こうやって人の力量でも試しているんだろうか。菓子折りなかったら買いに行かなきゃいけないよね、と思いつつ、ダンボールから夫の職場用に買ってあった菓子折りを出し、軽く化粧をすると渋々私は公民館へ向かった。

 公民館につくと『え?この町内のどっから湧いたの?』と言うくらい大勢の女性が入り口にたむろしていた。私は『この人数には足りないよ、お菓子〜!!』と思いながら入口に立つ一人の女性に
『引っ越してきた〇〇です…』
と声をかけると
『到着されました~~~!』
と彼女はびっくりするくらいの大声で中に向かって叫び、対照的に小さな声で私に
『どうぞ、お入りください。』
と言った。

 私は頭を低くしひとりひとりに
『はじめまして。』
と言いながら靴を脱ぎ、公民館の中に入った。15畳ほどのホールにまさに ”ボス” って言われそうな女性7人がすでに座っていて、その横のテーブルにお付き人らしき女性が座っていた (後に彼女は書記と判明、以下書記さん)。

 書記さんが私に手を差し出してきたので私が戸惑っていると入口の方から小さな声で
『菓子折り菓子折り…』
と言う声が聞こえた。私は慌てて持ってきた菓子折りを袋から出し、彼女に手渡した。

 皆が正座する中、真ん中に一人だけ椅子に座った上品なおばあさんがいた。”ボスの中のボス” だと言うことは初見の私にもすぐに理解できるほど、ラスボス感あるオーラが出ていた。

 後にこのボスの中のボス=重鎮(以下彼女は重鎮)とは因縁の関係を経て、数年後『クソババア』『愚か者』と笑って憎まれ口を互いに言えるようになるのだが、それは別の機会に書くとして、その右脇にはさっき夫婦でやってきた町内会長の奥さんが陣取っていた。

『皆様、宜しいですか?』
彼女はそう言うと小さいメモ帳を出し、さっき私から聞き取ったプロフィールを皆に説明し始めた。『このためだったの〜?』という驚きと品定めされているこの空気感に圧倒された私の戦闘能力はすでに0、心は白旗を上げていた。

 会長さんの奥さんによる私の説明が終わると重鎮がようやく口を開き
『これで間違いない?』
と私に聞いた。私は
『間違いないありません。』
と答えた。
『旦那さんのお仕事はしっかりされているから問題ないわね。あなたはお仕事されるつもりはあるの?』
と聞かれ
『はい、自宅で仕事をするつもりです。』
と答えた。次に
『大学はどこを出てらっしゃるの?』
と言われ、どうせ調べることも無いだろうからと中退した大学の名前を答えた。そんなに知名度のない大学なので、皆反応に困っていた中、重鎮は空気を変えるどストレートな質問をしてきた。

『あなた子どもを作る気はあるの?』

ここまで来るともう私は怒りも通りこして大笑いしたくなってきた。

今、21世紀ですよ?セクハラ、パワハラ、マタハラって知ってます??

という言葉を飲み込んで
『こればっかりは運なので…』
と当たり障りのない答えをヘラヘラ答えると
『あなた、日本の現状を分かってますか?少子化はいずれあなたが私の年になった時にあなたが困るのです。』
と冗談ではなく真剣に、どちらかというと、ちょっと私を諫めるように重鎮は言った。
『ね、会長。』
と重鎮が同意を求めると
『その通りです。』
と右脇の女性は深く頷いた。私はあ、旦那さんじゃなく彼女が町内会長なのね、納得と思った。

 ああ、きつい。もうどうしようもないと思ったその時、書記さんが
『頂いたお菓子をお配りしますね。』
と場の流れを変えてくれた。すると待ってましたとばかりに外に立っていた女性達がササッとお茶を持ち込んだ。そのための人達だったのかと私も立ち上がろうとしたが、足が痺れて無理だった。困った私が様子を見つつキョロキョロしてると私の後ろを歩く一人の女性が忍びの者のように
『お茶、口付けて、今日のお礼を言って…』
動きを止めず、すれ違う瞬間私の背後でささやき、そして歩き去った。

 私は『忍びさんほんとにありがとう』と勝手に心で叫びながら
『お茶美味しいです。本日はお時間をありがとうございました、これからお世話になります。よろしくお願いします。』
と言った。
すると重鎮はゆっくり私の顔を見降ろして
『お世話、はここに暮らす以上お互いがお互いにするものです。この地を知り、この地を愛し、この地に暮らす人を大切にすればあなたも大切にされます。頑張りなさい。』
と私の目をしっかり見て言った。この時の私は蛇に睨まれた蛙を体現していた。

『はい。』
となんとか声に出して言うと、重鎮は頷きながら席を立ち、続いて6人がその後に続いて席を立った。外にいた奥さま達が次々に頭を下げ全員を見送る姿はさながら江戸時代の大奥みたいだと思った。


 重鎮たちが道路の角を曲がり見えないことを確認すると、書記さんが私の前に来て、両手を顔の前で合わせ
『本当にごめんねぇ、驚いたでしょう。ほんと、私達もみーんなびっくりしたんよ、時代錯誤で(笑)。失礼なこともたくさん言ってごめんね。』
と言ってきた。後ろで忍びさんや多くの女性がうんうん頷いていた。
 
 この時の私は声が出ず、もう誰も信用すまいと、隙を見せないよう引きつった微笑みを返すのが精一杯だった。皆で使った食器を洗い、掃除機をかけ、床を拭く間、言わゆるこの『顔見世』のルールを書記さんが教えてくれた。

 菓子折り必須、きちんとして高すぎない服装、敬語の使い方など、皆さんの過去の失敗から積み上げたデータがそこにはあった。また後の人が大変にならないよう、特別なことも控えたほうがいいとも教えられた。

 次に忍びさんが
『次からはエプロンしてくるか、持参でくるといいわよ。』
と教えてくれた。そして
『縁側で煙草すうのやめなさいね(笑)。ここは田舎なの。特に子供作れって言われたからね。』
と私の耳元にささやいた。私の心底引いてる様子に彼女は苦笑いしながら
『外から来た人はみんなに見られるんよ、私もそうだった。娯楽なんよ。』
と鞄の中に入った煙草の箱をそっと私に見せた。そして

『ここに慣れるには3年はかかると私も他の家のお嫁さんに習ったの。無理しないで。あなたはお嫁さんじゃないから、なんなら関わらないようにしてもいいし、無理に仲良くしなくてもいい。あなたはここでずっと生きてくことはないのだから。選べることも忘れないでね。』
と真剣な顔で言った。


 帰ってきて玄関を開けると、江戸の大奥から舞い戻ってどっと現実感が迫ってきたためか、疲れがこみ上げた。新しい畳の匂いのする新居はまだ私に他人行儀だったが、それでも私は扉で区切られた自分だけの空間にいられるだけで心底ホッとしていた。

 冷蔵庫からビールを取り出した時、忍びさんの言葉を思い出した。私は縁側に置くために買った椅子をキッチンに運び座ると、ビールを開け、煙草に火をつけた。さっき近くの自販機で間違って出てきたセブンスターの煙草はことのほか重くて、思考停止した脳みそがクラクラした。

『あ゛〜〜〜〜〜〜〜〜~~!』

私は気が付くと大声で叫んでいた。

一日も早くここから立ち去ろう。ここの人とは関わらない。私はまだ新居に来てもいない夫に電話して、その決意を告げたのだった。

 しかし私はこの先5年の間ここに暮らすことになり、ここに慣れるには3年かかるを体現し、そして引っ越す時には寂しくなって泣いてしまうほど、この町と、この町の人が、好きになっていくのである。

(続く)

メロ―イエローと夕日

 中学2年の秋、夕方の掃除でモップをかけていると小学校の頃からの同級生が猛ダッシュでかけてきて
『K先生が逮捕された!』
と言った。すると同じクラスにいたTちゃんが運んでいた荷物を足元に落とし、派手に何かを割った。私はTちゃんに駆け寄り『大丈夫?』と聞くと、彼女は呆然とするばかりだった。

 K先生は六年生の時の私達の担任だった。

 六年生になった私達にK先生は開口一番
『僕と最高の六年生の1年にしましょう!』
と言った。K先生は見た目が学校一かっこ良くて、サッカーが上手くて、担任に決まった時はクラスの皆が喜んでいた。
 
 『あれ?』と思い始めたのはゴールデンウイーク過ぎたあたりの参観日の時のことだった。その日の前日私達はK先生から『台本』なるものを配られたのだ。

 台本には受け答えの順番、先生の冗談に笑う、手を挙げる人、問題を間違える人まで細かく指示されていて、私達はそれを読みながら"リハーサル"なる授業をすると言われた。まだK先生の恐ろしさに気づいてなかった私達は『え〜〜凄い!これ違うこと話してもいいの〜?』と口々に先生に質問をぶつけながら笑った。

 その時だ。K先生はビュンとすごいスピードで長い定規をしならせ黒板に叩きつけた。

 『お前らの親は何かというと担任が悪いっていうんだよ。良いか、ここから楽しく学校で過ごしたかったら台本どおりに授業をやれ。わかった?』

K先生は声を荒げることなく静かにそれを言い、今度は金属製のゴミ箱を蹴り上げ『わかったな?』と微笑みながら念を押した。教室は静まり返り、翌日私達は何が起こったのかまだよく理解出来ないまま、台本どおり参観日の授業を全員で演じた。

 そこからしばらくK先生は何もなかったかのように日々授業を続けた。あの日から変わったことと言えば、数名の生徒がK先生の目の敵にされたことだ。もしかしたら彼らはそれぞれの親に話したりしたのかもしれないが、真相は分からない。でもそれ以前からK先生は『平等』という言葉を好んでよく使い、抜きん出た行動、例えそれが優れたことでもひどく嫌っていた。彼らは比較的優等生やいわゆる人気者の部類だったから目の敵にされたのかも知れないが、まあそういう風にすることで支配しやすい空気をK先生が作りだしていたことだけは確かだ。

 事件が起こったのは、夏休み明け9月だった。

 同級生のHちゃん、彼女は私の幼稚園からの幼なじみであり、美人で勉強が出来て、そして学校の人気者だった。そんな彼女もK先生からは嫌われ目の敵にされていた。彼女は小さい時から喘息を持っており、幼稚園の頃から運動会を休んで見学したり、風邪をこじらせるとしばらく学校を休むこともあった。

 K先生は彼女のそれを許さなかった。彼女が体育やプールの授業を休みたいと言うと、長々と皆の前で叱咤し、それ以外の掃除などで彼女の持ち場を増やした。K先生が怖かった彼女はそのうち無理をして体育の授業に参加するようになった。

 ある日、体育が終わり、次の授業が始まる寸前、Hちゃんの後ろの席だった私は肩で息をする彼女に気がついた。喘息用の薬を吸うやつを何度か試したがあまり落ち着かないようだった。『大丈夫?』と小声で聞くと彼女は首を横に振った。その時、K先生が教室に入ってきてしまった。

 起立と礼で彼女はすでに立てなかった。このままでは彼女が死んでしまうかもしれない。私は手にびっしょり汗をかき始めていた。もう彼女は自分で声を出せない状態だ。私は覚悟を決め、目をつむりそっと手を上げ
『先生、保健室に行きたいです。』
と言った。

立ち上がった私の膝は緊張でガクガクしていた。
『どうした?』
と笑って言ったK先生の顔がすでに怖かった。
『Hちゃんは喘息ですぐにお薬が必要です。』
と私が答えると
『おーい、また仮病か?H?』
とK先生は言った。

『お金持ちで甘やかされて育ったからかな〜、体が弱いのは。先生は騙されないぞ。』

K先生は笑ってこちらに近づいてきた。
先生が近づくと彼女の呼吸は一層荒くなった。先生は彼女の隣を通り過ぎると、私の髪の毛をガッと掴んだ。
『お前…』
とK先生が言ったその時彼女の呼吸は明らかに引きつり始めた。と同時に私は無意識に先生の腹をけって突き飛ばしていた。そこからはスローモーションの様でいて、冷静になった。私は彼女の腕を肩に掛け教室を飛び出した。そして教室を出てからすぐに大声で
『大丈夫?大丈夫?大丈夫?』
と大声で叫んだ。

 K先生は教室の外までは追いかけてこない、親から日々暴力を受けている私には分かっていた。こういう大人は他の大人に見つかることを1番恐れる。うちの教室は角にあって、階段を挟んだ場所に他の教室があった。だから距離のある他の教室の先生がドアを開けてのぞきこむくらい大声で私は叫んだのだ。K先生は追いかけてこなかった。火事場の馬鹿力って本当にあって、あの時の私は彼女を抱え、走れた。

 保健室に着くとHちゃんの意識はすでに朦朧としていた。保健の先生は慌てて救急車を電話で呼んで、校長室にも連絡を入れた。そこで私はようやく色んな恐ろしさの現実が戻ってきて、膝から崩れ落ち失禁した。保健の先生が
『大丈夫よ、大丈夫よ。』
と言っていたが、全然大丈夫じゃないよと思っていた。

 Hちゃんは救急車で運ばれたまま入院し、幸い大事には至らなかった。入院中K先生や学校関係者が訪ねても頑なに会わないらしいと狭い町で少し噂になった。そして彼女は退院してから卒業まで二度と学校に来ることはなかった。

 Hちゃんのお母さんが私に話を聞きたいと我が家に来たが、うちの親も暴力を私に振るっていたのでその話題が親の前ではしにくかったのと、Hちゃんがどんな風にはなしているか分からなかったこと、学校に戻った時、K先生にHちゃんが何かされたらという浅はかな考えに翻弄され、本当のことを言えなかった。

 そしてそれからの私はと言うと、翌日からK先生のイジメが始まった。ただ正味な話、実は私は楽になっていた。誰かがいじめられるのを見なくてすむし、まあ私の暴力中枢が壊れているからに他ならないが、時限爆弾の様な予定外の暴力に怯えるよりは、最初から嫌われていれば予想がつくだけましだったのだ。親に比べれば、口でグチグチ言われるくらいは朝飯前だった。

 クラスの友達は私と関わるとK先生に目をつけられるので離れていったが、元々友達は少なかったし、当時の私は図書館で毎日、本さえ読めれば寂しくなかった。

 そうして時は過ぎ、三学期、小学校生活最後の参観日がやってきた。いつも通り前日に『台本』が配られ、私は『間違えた答えを言う人』に選ばれていたが、もう既にどうでも良かった。演じていれさえすばK先生は満足なのだから、チョロいもんだとさえ思っていた。

 そして参観日当日はきた。授業も残すところ5分、順調に台本が進んで授業が終わりかけていたその時だ。

『僕はこの問題がわかりません。』

幼稚園からのもう一人の幼馴染みのMがふいに台本とは違う質問をした。クラス全員の血の気が引いた。台本には『M、正解を答える』と書いてあった。K先生は少し黙ったあと顔をあげずに
『何が分からない?』
と聞いた。Mは
『わからないのにわかったって言えません。』
と答えた。先生は
『M君は正直ですね〜。』
と保護者に笑いを誘うように言った。
そうしているうちに終了のチャイムが鳴った。K先生ひき釣り笑いをしながら
『はい、今日は最後までできなかったけど、授業はこれで終わります。クラスで卒業に向けた話し合いがあるのでお母様方は先にお帰りください。』
と言った。

 保護者が居なくなったことを確認した後、K先生は『お前、やってくれたな』とボソッと言いながら、クラスの前後のドアをピタッと閉めた。そして黙って鉄製のゴミ箱を手に走り込み、M君の足に叩きつけた。ドスっという音の鈍さが余計痛さを感じさせた。静かな教室で先生の少し荒い息の音だけがかすかに聞こえていた。Mは小さな声で
『Hちゃんは先生のせいで死にかけました。けいこも悪くない。』
と言った。その瞬間、先生の手がMの頬をビシッと打った。その時どこかのクラスのホームルームが終わり一斉に生徒が走り出す足音が響いた。

 K先生は珍しく大声で
『明日から覚悟しとけ』
とMに言いすてると、教室を出ていった。

 私がMに近づき
『Hちゃんも私も大丈夫たよ。』
と言うと
『大丈夫じゃないのは僕のほうだよ。』
と言って泣き出した。
 
 そう言えば彼は幼稚園の時から泣き虫で、トンボの羽をむしった友達を見ても泣くくらい繊細だったことを思い出した。その日は足を引きずる彼の荷物を私が持ち、久しぶりに2人で話をしながら家まで帰った。大変なことがあった割に、凄い下世話な話題をして久しぶりに大笑いした不思議な時間だった。

 結局卒業の日までの数週間、私とMは先生の目の敵にされたが、二人ともなるともう楽勝の域だった。そして無事に卒業式を迎えた当日、配られた卒業アルバム、クラス写真の右端の丸でHちゃんは笑っていた。何人かのクラスメイトに
『ごめん。』
と謝られたが
私はなんだかなと思いつつ、皆一辺倒に
『気にしてない。』
と答えた。


 卒業式の帰りにHちゃんの家に寄った。彼女はすごく痩せてしまっていた。
『中学は来るよね?』
と私が聞くと
『私立を受験して受かったからそっちに行く。』
と彼女は答えた。そしてHちゃんは買ったばかりであろう漫画の最新刊と綺麗なクッキーの箱をどこかの有名なデパートの袋にいれてプレゼントしてくれて
『ごめんね。』
と言った。私は泣かないようにしながら
『元気でいてね。たまに会えたら話そうね。』
と言い、手を降って別れた。その後彼女はお母さんと学校の近くに引っ越ししてしまい、二度と会うことはなかったが、風の噂でキャビンアテンダントになったと聞いた。

 そして満点を重ねても評価の悪くされた成績表に、けいこさんは協調性がなく将来心配ですと書かれたおかげで、家に帰ってからが修羅だったのは言うまでもない。

 

 さて冒頭のTちゃん。5年生の時、海外から転校してきた帰国子女で、なぜかK先生の1番のお気に入りだった。そしてHちゃんの喘息事件以来、Tちゃんと私は同じ町、しかも四軒となりに暮らしているというのに口をきかなくなっていた。K先生の逮捕を聞き、動揺しているTちゃんに
『一緒に帰ろうか?』
と言うとTちゃんは首を横に振り後ずさりしたが、私は取りあえず動けなくなっている彼女の割れてしまったペンケースをほうきとちりとりで掃除し、
『やっぱり一緒に帰ろ。』
と言った。

 中学校は電車で30分かかる場所にあって、私達はその道のりを自転車で1時間半かけて通っていた。ヘルメットを被り田んぼの真ん中に一本だけ通ったアスファルトの道を二人で並んで走った。

 Tちゃんが全然喋らなかったので、私は当時好きだったスラムダンクの話題をひたすら話した。私達の家のある町は田んぼを抜けた山の上にあってたどり着くには毎日自転車を押して長い坂道を登らなければならなかった。坂を登りながら一人で話しているから、私の息が切れぎれになってきたその時、Tちゃんは急に立ち止まり
『どうしよう?ねえ、どうしよう?』
と言った。

『大丈夫だよ、先生警察に捕まったしさ。』
と私が言うとTちゃんは
『違うの、違うの。』
と言い泣き出した。私は道の脇に自分の自転車を止めてから、Tちゃんの自転車も止め、彼女を道の縁石に座らせた。そしてこっそり学校に持っていったチョコレートを鞄から取り出し、半分に折って彼女に渡した。Tちゃんはチョコレートを握ったまま

『私、ずっとK先生の家に悪戯電話してたの。』

と言いだした。
『は?Tちゃんが?なんで?』
と言う私の質問を無視して
『私も警察に捕まるかな?ねえ、捕まっちゃうのかな?』
と泣きながら言いだした。
『いつ、いつからやってたの?』
と聞くと
『小学校卒業した日から。』
と言った。あまりのことに呆気にとられながら理由を聞くと
『K先生に学校を辞めてほしかった。』
とTちゃんは顔を上げずに言った。なんでも1年半もの間、夜中に起きて、ワン切りの電話していたという。先生の具合が悪くなれば学校を辞めると思ったと。

『先生が警察で電話のことを話したら…』
Tちゃんが話したところであまりに彼女が可愛くて私は笑いだしてしまった。
『大丈夫だよ、先生多分寝てて気がついてないよ。それに逆探知ってリアルじゃないと出来ないんだよ、2時間ドラマでいつもそうだもん。』
と私が言うとTちゃんは
『ほんとに?』
と蚊の鳴くような声で言った。
『うん、富山のばあちゃんといつもサスペンスの二時間ドラマ見てるけど、どれもそうだよ、だから大丈夫だよ。』
と私は答えた。顔を見合わせると、Tちゃんはやっと笑った。そして二人で溶けてしまったチョコレートを食べ始めた。

『それにしても勇気あるわ、Tちゃん凄いわ。ロックだねえ~。』
と私が言うとTちゃんは困った顔をしながら私に
『ずっとごめんね。』
と言った。
私は
『ホントだよ〜つらかった〜。』
と彼女を睨んでから
『次の自動販売機でメローイエロー買ってくれたら許す!』
と言った。いつも優等生な彼女は
『買い食い禁止なんだからね。』
と言い笑った。その後歩きながらTちゃんがボソッと
『あの時私がもっと勇気を出せてたら、少なくとも後輩は苦しまなかったのにね。』
と言った。私はああ、あんた凄いよ、私そこまで、考えられなかったわと言おうとして止めた。なんか違う気がした。そして彼女は
『でもさ、あんたも、ひどいよ。』
と言うので
『なんでよ?』
と私が言いかえすと
『あんな状態で”私は平気だから”みたいにされると怖かったよ。たまに先生と、同じくらいあんた怖かったよ。』
この人するどいな、と思ったし、先生の体調を悪くさせようとか思うあんたも大概だよとも思った。でもちらっといつかの未来、本当の私のことをTちゃんには話したいなとも思った。

 約束のメローイエローを買ってもらって、たらたら二人で私の家まで歩いたら、ニュースを聞いたであろうMが家の前で待っていた。TちゃんはMにも泣きながら謝っていた。

 私達の小学校生活はその日ようやく本当の卒業を迎えた、そう思った。

 K先生は予想通り生徒に対する暴行で逮捕されていた。翌日の地方新聞に小さく記事も載って、噂好きな小さな田舎町はしばらくその話題で持ちきりだった。ここぞとばかりに話す同級生もいたらしいが、大半は話せなかったと思う。本当の被害者、とは、そんなものである。傷ついた、傷つけた傷が大き過ぎてなかなか話せるものじゃないし、先生が逮捕されたからとて、六年生の1年間が返ってくることもない。

 現に私がこれを文章にするまでに、30年近くかかっている。


 ただたまに思いだす。あの時Hちゃんにもらった漫画のこと、メローイエローを飲みながら三人でみた夕日の色やTちゃんの悪戯電話のこと。そして
『たまに、先生と同じくらい、怖かった』
と言ったTちゃんの言葉も。
私も人の親になり、ようやく最近過去の自分自身を許し、こうして話をできるようになった。今なら
『実はあの時ね、』
と話せる気もする。そしてあの時彼女や彼が泣いた分、私は彼らの前で泣ける気がするのだ。

(了)



 



 

英語を話す、その手前に

 COVID-19によるロックダウン中、私と娘の日課になった朝夕のウォーキングは思いがけず親子で色んな話をする機会になった。日本語でしりとりをしたり、私が受けた英語レッスンの復習を娘がしてくれたり、夜寝る前に読み聞かせた本の話で盛り上がったり。

 そんな時間を過ごす中で私は新たな娘の魅力を知ることもできた。

 

 ある日のこと、娘が歩きながらこう話しかけてきた。

「ママ、英語の勉強、辛かったりする?」

オンラインレッスン前、発音をSiriに認識してもらえるまで繰り返し練習して、それでも先生に自分の英語が通じないってことが続いていた。落ち込んた私の様子を娘は見ていたらしい。

「そうだな。どちらかというとご近所さんやお店の人、病院の先生なんかにとっさに言いたいことが伝わらないことの方がママはつらいから、少しでもそれが解消できるなら、例え今、少しつらくても頑張りたいと思ってるよ。」

と私が答えると娘は

「ふ~ん。」

と言って少し考えたあと、こんなことを話し始めた。

 

「私がね、マレーシアの保育園に入った時、ぜんぜん英語が分らなかったでしょ?ママがトイレやご飯の絵が描いてあるカードを作ってくれて持っていったね。」

 

 娘は5才でマレーシアに来て、すぐにローカルの保育園に入園した。マレーシアの教育についてはインフルエンサーの方々が色々と書かれているが、私の個人的感想で言うと、日本以上にマレーシアはシビアな教育社会である。保育園はどこも日本の小学校並み、いや、それ以上に勉強が中心のハードなスケジュール。朝からお昼過ぎまで算数、英語、マレー語、中国語をみっちり机に座って時間割通りに教わる。

 娘の通っていた保育園では毎日の宿題に加え、毎週英語の暗記テストがあって、園長先生自らひとりひとりにテストを行い、子ども達はマンツーマンで発音をみっちり修正される。その厳しさにある子はテストのある日はストレスで体調を崩し保育園を休み、ある子はストレスから娘の腕を噛んだ。

 今でも娘は言う。あの時の先生たちが厳しく全てを教えてくれなかったら、私は今インターで勉強出来ていないと。

 

「私、保育園に入ったばかりの時、赤ちゃんの時のことをすごく思い出したんだよ。」

「え?」

私が驚いたところに、続けて娘は話しだした。

 

「保育園に入ってすぐくらいからかな?英語が身体に入ってこようとするとその言葉を日本語で覚えた赤ちゃんの時の記憶がすごい頭の中にスライドみたいに、なんていうか記憶のカードが場面場面で出て、たくさんのことをそこに足して覚えていく感じがあったの。今もそういうことがあるよ。他の言葉を覚える時もそう。」

 なかなか怖い事言いだしたぞと興味深く私は娘の話を聞き続けた。

 

「でね、途中で思うの。これ英語にしちゃっていいのかな?日本語と両方記録しなくていいのかな?日本語忘れちゃう、分からなくなりそうだなって。でも英語は毎日どんどん身体に入ってくるし、英語を話さないと何もできないから、記憶カードにはどんどん英語の方が増えて……その時すごく私、怖かったんだ。」

 

さらにびっくりした私が

「え?怖かったって言うのはどういうことなの?」

と聞くと、娘は

 「記憶カードが英語になることにすごく混乱したというか。だって私は日本人だし、パパとママとは日本語でお話してるし、大事な事は日本語で覚えたほうがいいはずなのに、どんどん英語が増えちゃう。日本のお友達との記憶も英語で思いだす方が楽になってくる。最初自分の話す日本語も、誰かが話す英語もわからなくて怖かったのと、そして日本語で分かってたことを忘れていくのが怖いのとが、同時起こってすごく怖かった。」

 

と言った。聞いていた私はなかなかの内容を受け止めるのにやっとで

 「そっか…。」

となんとか言葉にした。すると娘はこう続けた。

 

「ママの頭の中にはさ、日本語の記憶カードがたくさんあってさ、そこに私より書き変えたくないたくさんの思い出があると思うんだよ。」

 「え?」

 「私はママみたいに日本に長く暮らしてないから、すごく怖かったけど、書き換える思い出が少ないし、残しておきたい記憶もママみたいにいっぱい持ってない。だから今は英語で話すことやマレーシアに暮らすことの方が自分に合っているとも思える。そんな私でも怖かったから、ママが英語を使うことは、もっと怖いんじゃないかって思ったんだ。」

 

「誰でも英語をマスターするには記憶カードが一回赤ちゃんに戻らないといけなくなる。赤ちゃんってみんな誰かに守ってもらわないと生きられないじゃん。私は子どもだからみんなが守ってくれたけど、ママは大人だから中身が赤ちゃんって誰も思わない、だから誰にも守ってもらえなくて怖いよね。それにママは日本語がたくさん分かる分、自分の言いたいことが相手に伝わらなかったことが分かるから余計に怖いだろうなと思う。」

 

そして娘は私の顔を見直していった。

 「だから今は私、ママ、すごいな、勇気あるなて思ってるよ。」

 

あまりにすごいことを言われすぎて、頭が追い付かなかった。なんだか涙が出そうになるのを堪えて先に

 「ありがとう。」

と言うのが精一杯だった。娘はそんな私を少し不思議そうに見つめながら

 ”welcome”

と言った。

 

 マレーシアに来た理由はたくさんあるけれど、娘に多国籍な教育を受けさせたいというのもその1つだった。ただどんなに良かれと親がとった選択も子どもにとっては親のエゴであり、娘に年齢以上の無理や別れを経験させたことは事実だった。英語、マレー語、中国語、出来ない自分に憤り、嫌だと自ら破ってしまった保育園の宿題を自分でテープで張ってなおし、泣きながらそれでも宿題を解く娘を見て、親である私の心の方が先に折れそうになったりもした。

 インターに入ってからは私の英語力が娘の英語力に追い付かず理解してあげられないことが増え、娘が私に話すことを諦めた時もあった。私が言葉を理解できないのを利用して娘が嘘をついたことも。それがどれだけ人を傷つけるか、私が娘に泣きながら話した時もあった。

 

 娘はいつの間に、親を思いやる言葉をかけてくれるまでに成長していたのだろう。日本語の記憶カード、消したくないことがまた増えたよと思った。

 

 成長し、親の先行く娘にどうしても聞きたくなった。

「どうやって、あなたは英語が怖くなくなったの?」

すると娘は考えながらこう答えた。

 

「何言ってるか分からなくても、トイレに連れてってくれたり、ご飯を一緒に食べてくれたり、何回も同じ言葉を言ってくれたり、笑って手を繋いでくれたり、言葉を話すより先に、みんなを信じられて、大丈夫って思えたからじゃないかな、多分。」

「そうしたら言葉が頭より先に心に入るようになったんだよ。言葉が心を通ると怖くなくるんだと思う。」

 

言葉は頭より心を通す方が先。」

 

なんてすごい言葉なんだろう。最近の私はどうしても知識を詰め込まねばと躍起になっていた。本末転倒とはこのことだ。なんのために言葉を学びたかったのか。娘のことをもっと理解したい。大切な人達をもっと理解したい。大切にしたい。信じたい。そうやって生きていきたい。言葉は頭より心を通す方が先。娘の言葉は私を言語を学ぶことの原点に引き戻してくれた。

 そして私には日本の、日本語での忘れたくない、忘れられない大切なことがたくさんある。だから英語に時間はかかるし、怖くて当たり前。そう思ったらなんだか気が楽になった。

 確かにマレーシアで大切な人、大切なことが増える度に、私の英語を学びたいモチベーションは上がってきた。私の中にある日本語で作られた大切な思い出や出来事を、そのうちもっと私は英語で伝えたくなるだろう。だから大丈夫、とも思えた。

 

 その日から私は話したいと思う事を一定時間、娘に英語で話すようになった。確かに怖いと思わないから間違えても平気だし、何より娘は私が英語で話すことを喜んでくれている。それが私もうれしい。


 また日本語とは違った関係性で娘と心を通わせられるようになった気もする。話したい、伝えたいと心から思っているからこそ、調べて使った英語や娘の使った英語がすんなりと私の脳に入っていく感覚を感じ、これが言葉が心に入るってことかとも実感できた。

 そんなことを毎日繰り返していたある日、いつもレッスンをしてくれる英語のオンラインの先生がこう私に言った。

”Wow!

Keiko, you clear own hurdle!”

 

 さて明日も 娘とたくさん話すために、これから単語を調べるつもり。

明日はまず、こう話そうと思う。

”I have great respect for you!

Today I want to tell you about your many charms!”

 

 

やっと動き出した、この心は

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 マレーシアに来て半年ほど経った頃から、私は心に漠然とした焦りを抱えていました。39才で日本からマレーシアへ、夫の転職に付いてきた私。与えられた配偶者VISAでマレーシアで働くことは違法です。日本で細々と続けてきたクリエイターの仕事も、その多くを手放さなければなりませんでした。

 また当時の私は英語が全く話せない上、大学を中退しているので学歴がなく、こちらの現地採用を勝ち取ることが難しい状態でした。

(実力があれば…とおっしゃる方がおられますが、海外の方が圧倒的に学歴社会でした。海外就職をお考えの方は頑張って大学卒業しましょう、これゼッタイ)。

 いつ帰国するかわからない、年齢的に再就職は現在でも難しい年齢…こういう状態を『積んだ』と言うんだろうなと、焦りだけが増す日々でした。

 

 当時、新しい環境でキャリアを積み上げる夫と新しい学校でどんどん成長する娘は活き活きとマレーシアと繋がってゆき、その傍らで私は環境に慣れることに必死!持病の関係で運転免許が持てない私の行動範囲はすこぶる狭く、Twitterで人とつながることが唯一孤独を解消する方法でした。

 きっと、心の状態が体に出るんでしょうね、来馬しての2年間は様々な形で体調を崩しました。入院を繰り返しては、自信を失っていき…当時はわからなかったけど、必死にその日その日を繋いで生きていたのだと今は思います。

 毎日床掃除をする、シーツやまくらカバーを三日に一度替える、お花を飾る、散歩する道すがら人とあいさつを交わす…。仕事をすることは今不可能という現実を受け入れつつ、少しずつ自分らしい普通の日常を手にできたのは、マレーシアに来て3年目。そう3年もかかりましたわ、長かったな〜。

 

  そんなある日、私はボランティアイベントに参加、その後ちょっとお茶をしない?と一人の参加女性に誘われました。その方は結婚以来、そのほとんどを旦那さんの海外転勤に帯同されて世界各国で暮らしてきた方でした。

 

 

 私のマレーシアでの生活や子育ての悩みをうんうんと聞いて『わかるわ~(笑)』と言ってくださって、また何か国も渡り歩いていらした経験は私の想像をはるかに超え(銃を構えられたら黙ってお金を置いて相手が去るのを待つのよ。その時はベビーカーを押してたのだけど怖かったわ。今は笑って話せるけど(笑)など!)私はすっかりその方のお話に魅了されました。

 

 そんな中、話の流れで

「あなたは何のお仕事されていたの?」

と聞かれ、私の心はチクッとしました。マレーシアに暮らして以来、仕事の話を過去の話としてすることがつらく、実は避けていたのです。

 ただ私の職歴は日本でも世界でも驚かれること100%なほど紆余曲折あるので(外国の方のほうがかなり興奮気味に驚かれる(笑)。またそれは別の機会に書くとして)、その方もご多分もれなく表情豊かに私の話を聞いてくださいました。

 

そしてその方は

「時代が変わってきたのね、本当に良かった。それが確認出来て。」

とおっしゃったのです。

「どうしてそう思われるのですか?未だに帯同の家族はキャリアを絶たれる場合が多いです。女性が我慢する場面はまだまだ日本社会では多いと思うのですが…。」

と私が返すと

「私の時代はね、女の人に総合職がなかった時代だったのよ。あなたに想像つくかしら?」

 

と少し微笑むと、そこからその方の物語をお話ししてくださいました。

 

 

「私と夫はね、大学の同級生なの。夫は私のレポートを盗み見してなんとか卒業できるくらいの成績。私は大学に残らないか?と誘われるほど自分で言うのもなんだけど、かなり上位の成績だった。」

 

「でもね、就職活動になって、書類が通るのは夫ばっかり。同じ会社を受けてみても私は書類で落とされた。電話で一般職応募に間違いないか、事務職だったら即採用とはっきり言われたこともあったわ。」

 

「一方で夫はどんどん名のある会社から誘いがきて…大学名だけで書類は通ってたんだと思うわ(笑)。そんな現実に打ちのめされたくなくて、私は東京じゃない、ほかの地域の会社にもどんどん履歴書を送り、ようやく地方の出版社から一般職で内定をもらったの。せっかく受かったのに親は泣いたわよ、そんな会社聞いたことがない、そんな会社に入れるために有名大学入れたんじゃない、ってね。」

 

「でも私は嬉しかった。すぐに暮らしたことのないその地域へ引っ越すことを決めたの。でも夫は良い顔をしなかった。遠距離恋愛になるし、それに僕はいずれ海外に赴任することになるってね。でもこの時の私は夢が叶って、自分の未来、前しか見えてなかったのよ。」

 

 そう言ってから本当に嬉しそうにされていた表情が少し曇りました。

 「夢の職場は、描いていた場所とは程遠かったわ。一般職で入社した女性は私ただ一人。しかも会社創設以来初。こう言っては何だけど、学歴も私が一つ頭抜けした感じ。そこで私は営業職に就いたの。希望は編集だったのだけどね。同期は男性のみ。事務職に女性はいたけれど、パートの方だけ。初日から私にはお茶くみやコピーを頼む人が続出してね。ほかの同期には頼まないのに。あからさまに嫌がらせが始まった。それでも人より頑張れば、契約が取れればって頑張ったわ。意地でお茶くみもコピーも断らなかった。でもね、頑張れば頑張るほど、会社の人と距離が開いていくのを感じたわ。」

 

「それでも初めて契約が取れたときには嬉しくてね。クライアントさんからは女性の営業をよこしてという方も現れた。そして一年経った時、二人目の女性の総合職が入ったの。この会社を変えていけると思った。」

 

「そんな時にね、」

「夫の海外転勤が決まったの。」

あぁ。聞いていて想像がついていたとは言え、この言葉に心が痛みました。

「夫からしたら出世コースに乗ったも同然の移動、行ったらもう5年は帰れないと。あなたたちと違って、当時恋愛の自由さも、まだ今ほどではなかったし、何よりもう、アレしてしまっていたのよ、私達(笑)。真面目だったのね、当時の私。悩んだ、悩んだけれど、道は1つだったのよ。」

「会社に報告した時のことはもう忘れられないわ。同期数人と後輩の女の子は残念がってくれたけど…」

 

「直属の上司、あの時言葉では残念って言ったけど、ホッとした顔したのよね。」

「ああ、この人、私がいてきつかったんだなって。そう思われていたこととそんなところに後輩を置いていくこと、なんだか色んなむなしい気持ちを抱えたまま、私は夫と海外へ行ったの。そこからはすぐ妊娠して三人の子どもを育てるのに必死だった。4か国も転勤したしね(笑)。」

 

 

「でもたまに、夫の仕事やその世界を垣間見る時、思ってしまっていたのよ、私だったらもっと上手くやれるのに、と。そして海外で子育てするからこそ、表向きだけでも男女平等でカッコよく働いている外国人のママ友を見るわけじゃない。私は英語だけでなくロシア語も出来たから、たまに夫の仕事を頼まれて通訳してもボランティア。夫の後任に女性がくることはついぞ今までなかったわ。」

 

そこまで話されるとハッとされて

「ごめんなさいね、こんな話。」

と言われので、私は慌てて

「いえ、聞けて嬉しいです。」

と言い、

「でもどうして私の話を聞いて『良かった』なのですか?」

と聞きました。

 

すると

「だって、あなた何回もお仕事変えてらっしゃるでしょう?失礼だけど大学を中退されても、私の夢であった書籍に関わる仕事に就けた。結婚したあともお仕事できたのよね、しかもフリーランスで。そしてその間にたくさんの人と恋をしてきた。確かに日本はまだまだ男女平等ではないけれど、私達は少しずつ進化してるのよ!私が初の総合職になったあの日から!」

とその方は嬉しそうに私の手を握りながら、そうおっしゃられたのでした。

 

 

 お会計をすませたあと、歩きながらその方がクスクスと笑われたので

「どうしたんですか?何か思い出し笑いですか?」

と尋ねると

「違うの、あなたの話を聞いてね、私やってみたいことを実現できるような気がしてきたの。」

と言われるその方に

「え、なになに、なんですか?」

と私が聞くと、耳まで真っ赤になりながら

「夫がもう少しで定年じゃない?

実はね、私、コンビニでバイトしてみたいの。」

と答えられたのです。

 

びっくりした私が

「え~~~~?それこそバイト先の店長さんが履歴書みてひっくり返りますよ?」

と返すと

 

「何を言ってるの、けいこさん。コンビニは陳列、料理、コピー機のメンテ、トイレの管理、荷物を受け取り出荷して、お金の管理、売り上げを予想して発注まで。色んな事が出来ないと働けないのよ。それにね、今からは海外の人たちの利用が増えるし、私、役立てると思うの。」

 

そして少し小さな声で

「それに、私考えたら全然職歴がないのよ、でも、そんな私でも日々やってきたことで役立てそうな気がするの。」

 

「それにね、あなたと話して気が付いたの。私は男女平等と偉そうに語りながらね、学歴で他人も自分のこともはかってたのよ。学歴から自分のプライドを崩せてなかった、でもそれが唯一自分のプライドを満たせるものだったの、何十年も。時代は変わっていたのにね、変わっていなかったのは私のほうよね。やっとやりたいこと、やりたいって言えたわ。」

 

 そう言って少し黙られると、ハッと私を見て気を遣うようにおどけながら

「何より天国にいったら親がひっくり返りそうでしょ?そういうことまた1つ持っていきたいのよ、よく頑張ったねだけじゃなくてね。私が海外にばかりいて、親に心配しかかけなかったから、私の人生楽しかったよって言いたいのよ。」

 

そう嬉しそうに話された横顔があまりにも美しくて、思わず心の中でシャッターを切っていました、この時を忘れたくないな、って。

 

「けいこさんも、諦めちゃだめよ、道はね、ずっと繋がってるのよ。あなたの道と私の道が繋がってたみたいにね。」

その言葉に

「〇さんもですよ!」

と返せたその時、マレーシアに来て良かった、と私は心からようやく思えたのでした。