お通しはいつものあれで。

実録、現実は小説より奇なり

楽しい悲しい、その先へ

 ついに大豆田とわ子と三人の元夫が最終回を迎えた。鉄は熱いうちに打てと言うが、見終わった後、前回に引き続き圧倒されて頭を整理するのに時間がかかってしまった。
 文字を打ってみるとカルテットや最高の離婚、それでも、生きていくなど過去作品をも脳内再生されはじめ、私は脚本家坂元裕二にひれ伏した。

 続編は一作目を超えられないというとわ子のセリフは一回目の結婚のことではなく、それぞれの生まれた家族のことだったんじゃないかなと私は思う。生まれ持っての変えられないもの、坂元作品には一貫してその残酷さが横たわる。

 かごめもとわ子も自分では変えられないことを幼い頃から抱えて生きてきた。人間が生まれた時に持つ、それぞれの第一作目。良い意味でも悪い意味でも、意識的にも無意識的にもそれを超えることは難しい。


 最終回ではとわ子の第一作目である両親との関係が描かれ、とわ子の持つ両親とのわだかまりが、それぞれの結婚→離婚に繋がっていたことが分かる。
 
 子ども心に両親二人からそれぞれ違う空気と違和感を感じてきたとわ子。自分とは別の好きな人がいる八作、自分の母ととわ子のとの間でとわ子を守れなかった鹿太郎、いきなり目の前から居なくなった慎森…元夫らとの夫婦関係が両親の姿と重なった時、とわ子は別れを選んできた。

『離婚っていうのは、自分の人生に嘘をつかなかったって証拠だよ。』

とかごめが言ったとおり、それぞれの続編は第一作目を超えられなかった。

 とわ子が望んだのは、抱えた想いを娘や夫に隠くせず幸せに見えなかった母や、妻が自分を愛してないと知って家に帰らなくなった父とは違う人生であり、自分が両親に愛されていたという人生の根幹を確かめることだ。

 その一方、とわ子の親友であるかごめは幼い頃に両親を事故でいっぺんに亡くしている。横断歩道を渡れないのは恐らくそのためだろう。動けないかごめの手を取ったとわ子を、かごめは家族だと言うが、これだけ長く深い関係であってすら、とわ子もかごめも自分の傷をお互いに語らなかった。

 ひょんなきっかけで他人からかごめの過去を聞かされたとわ子に、かごめは『忘れて。』と言う。傷で人生を測られたくない、私にはそれだけじゃないアイデンティティがある。その台詞からはかごめが今まで他人の勝手な想像によって、何度も不躾に傷に触れられたであろう過去が滲み出ていた。

 
両親の愛=根幹を幼くして突然失ったかごめが
『私には周りが全部山山山に見える』
『皆ができる当たり前が、私にはできない』
と言う。その時とわ子が
『あんたにとって私も山なの?』
と聞く。かごめは否定せず
『あんたはちゃんと社長をやれてる』
『空野みじん子は私一人で完成させる』
と言う。

すごいシーンである。
 
 それぞれの持って生まれたものの差がここで浮き彫りになる。どんなに互いを大切に思い、補い合っても超えられない第一作目。たとえ問題があっても肌で両親を知ることができるとわ子とそれを求めても叶うことないかごめ。恋愛ができるとわ子と恋愛が邪魔だと言うかごめ。
 
 恋愛の先は結婚が当たり前な世界では、関係が先に進むと、同時に世界は二人の世界から家族の世界にすすみ、どうしても育ちや両親の話に行き着く。それは否応無しにかごめの傷に大好きな人が入るということでもある。大好きな人との関係に両親の死に対する同情が入ってしまうと、かごめはその人と過ごせなくなってしまう。味わったことない、味わうことのできない両親との関係を他人がジャッジし可哀想という札をかける。恋愛をしない、それはとわ子の離婚と同じく、かごめにとって自分に嘘をつかない選択なのだ。

 まわりは全部は山。無意識に当たり前を差し出す人間ばかりの世の中で、かごめは嘘をつかず自分で自分を抱きしめる方法を探し続けて生涯を終える。

 そんなかごめが急死したことで、自分ではどうしようもないことが人生に増えてしまったとわ子。しかも八作が好きだった人がかごめであったことが分かった直後のことだった。

 『育ててやった』などどのたまう親戚に囲まれて育ったかごめは恐らく八作の気持ちに気付いていたはずだ。八作のことも指揮者の五条さんと同じように、なんなら、かごめの好きな部類に入っていたはずである。
 八作自身が恋をしない人を好きになったと認識していると言うことは、かごめは何らかのタイミングで八作にこれ以上私に入るなと予防線を張り、とわ子より先に、八作にそれを伝えていたと思われる。

 それがいつのタイミングかはわからないが、誰よりも大切な2人が別れてしまい、かごめもまた自分では変えられないものを増やし背負っていたのかもしれない。

 かごめととわ子、とわ子と八作の問題は両親との第一作目とは違い、自分でどうしようもないことだけでできていない。
 
 なぜなら、とわ子と八作は今も生きていて、2人には子どもである唄を中心に、かごめにも入ることの出来ない、ふたりだけの歴史と世界を持っているからだ。


 とわ子が精神安定に数学の問題を解くのは答えがあるからに他ならない。そんなとわ子が母の秘密の答えを唄と探しに行く。母の想い人は女性であり、彼女が母はとわ子や夫を愛していたという、ずっととわ子が幼い頃から得たかった答えの1つをくれる。母の選ばなかった人生、しかも少しかごめに雰囲気の似た母の想い人に、とわ子は自身を重ねたはずだ。
 
 二人が楽しくお酒を飲む姿に娘の唄が自分の人生の答えを見つけるところに鳥肌がたった。唄もまた、母の3度の結婚により他の人とは違う第一作目を持ち、自分ではどうにもならないことを、抱えたひとりだったのだ。

 母の秘密を知ったとわ子は今は再婚相手と暮らす父と、母のことを話す。すべてを知りながら『お母さんには可哀想なことをしてしまった』と笑い語る父の気持ちは『3人いたら恋愛にならない』に落とし込まれる。

『手に入ったものに自分を合わせるより
手に入らないものを眺めてるのが
楽しいんじゃない?』

と八作がとわ子に言う。
でもそれは手に入らないものと勝手に比べられている隣の人には残酷な現実でしかない。気がつけば、父を一番理解できる位置にとわ子はいたのだ。父の笑いの下にある寂しさや後悔から、とわ子は父の自分に対する愛情を感じとる。

『あなたは凄いね。私達はあなたをひとりで大丈夫な子にしてしまった。』
という父に
『田中さんも、佐藤さんも、中村さんもみんな私が倒れそうになった時支えてくれた人達だよ。』
と告げる。三人の元夫に餃子を作らせた父。とわ子の第一作目はようやくハッピーエンドを迎えた。

 元夫たちに『笑ってくれてたら、あとは何でもいい。』と話すとわ子。長い長い時間をかけてとわ子はずっと欲しかったものに気がつき、そしてそれがもう目の前にあることに気がついたのだ。

 唄がいなかったら、3人の元夫ととわ子は2度と会わない関係であったのかも知れない、とも思う。男女ではなく家族の空気が彼らを繋いでいるからだ。男女の枠に元夫たちを当てはめようと近づく3人の女性とのコントラストが、それを一層際立たせた。元夫3人がそれぞれにまた大切な人や家庭を持った時、この関係が続くのは恐らく唄の父親である八作だけだ。そして全員がその事実を分かっている。


 またこの人を忘れてはならない。『寂しい人には寂しい人が寄ってくる』と話した小鳥遊もまた、かごめやとわ子同様、変えられないものに縛られた人生を送る一人だった。
 ただ小鳥遊は自分が感じてきた理不尽を、他人に対しても同じように与えることが出来る。だから非情な仕事を恩人の頼みだからとやってのけられる。
 ここが彼ととわ子とかごめとの決定的な違いだ。そして小鳥遊の来た道はかごめやとわ子が通るかもしれなかった道の1つであり、二人が選びたくなくて避け続けた道の1つでもあったのだと思う。

『人生って、小説や映画じゃない。幸せな結末も、悲しい結末も、やり残したこともない。あるのは、その人がどういう人だったかということだけです。だから、人生にはふたつルールがある。亡くなった人を、不幸だと思ってはならない。生きている人は、幸せを目指さなければならない。人は時々寂しくなるけど、人生を楽しめる。楽しんでいいに決まっている。』

とわ子を救った言葉がいつか小鳥遊自身を救ってくれることを願う。

 そして最後にとわ子の初恋の人甘勝くんが
『君のことを10人いたら9人の人が好きという。でも残りの一人が僕。』
ととわ子に言う。わざわざ食事をしてそれを伝える甘勝くん。その帰りに自動ドアに挟まれ動けなくなるとわ子。

 どうにもならないことは、じつは身近に、常に隣に。私達はみんなどうにもならないことに囲まれて生きていて、知らないうちに誰かを傷つけ、誰かを受け入れ、誰かを許し、誰かに許され生きている。

 とわ子、元夫たち、かごめ、唄、父と母と母の想い人、小鳥遊、そしてきっと甘勝くんも。別れに対するそれぞれの後悔や願いが、結果とわ子の望んでいた『笑ってくれてたら、あとは何でもいい。』をかたちにしていた。

『見えないけど覚えている
言えないけど伝えている
波が満ちて潮が引く
楽しい悲しいその先へ』

ものすごいドラマだった
#大豆田とわ子と三人の元夫。
とわ子のまた来週、が聞きたい。

私も
とわ子と三人の元夫が
笑ってくれてたら、あとは何でもいい。

(了)